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(有)セイ・インターナショナル代表取締役 宮本誠一郎 

プロフィール :1961年4月5日生まれ 趣味:ゴルフ、旅、野球
学歴:米国ノースカロライナ州 Methodist  University 経営学部卒(経営学学士号取得)
座右の銘:人生は思ったようにはならない 決めた通りになる
 
 
私はここまでの人生で何度も挫折を経験し、生きることが不可能と思えるところまで追い込まれた人生も経験してきました。
そして「今が最高に幸せ」と言える人生を手に入れることができました。
そして「今が最高に幸せ」とあなたにも言える人生を手に入れてもらいたいので、よろしければ最後までお読みください。
 
 
初にお断りしておきます。
 
私のことをよく理解していただきたいのでプロフィールを物語風に書かせていただきました。
すべて事実です。盛っていません。
 
でも少しだけ長いかもしれませんが、よろしければ最後まで読んでいただければ宮本誠一郎のことをより理解していただけると思います。
まず最初の大きな挫折、それは10代の時です。
私は高校受験、大学受験に失敗しました。大学受験は現役、1浪ともに全滅でした。
滑り止めもすべて失敗しました。(この最大の原因は後に能力開発をやって分かり、それは今の研修をするときの大きな武器となりました)
高校は第一志望に落ち、第二志望の学校へ行きました。
そこは当時野球の名門で甲子園の常連校でした。
ある意味、将来プロ野球の選手になると決めていた私にとってはラッキーだと思い入学しました。
しかし、私は野球推薦で入学したのではなく、勉強で入り、受験の点数がたまたま良かったので特別クラスの中の特別な私が望んでいない旧国立一期校か医学部を目指すチームに入れられました。
勉強の嫌いな私はそのチームに入ることに興味はなかったです。すぐに野球部に入部しようとしたら進学指導部から
「お前は勉強で入ったのだから野球部に入ることは許さない。お前には野球部に入っても9人しか取れないレギュラーは無理だ。だから真面目に勉強していい大学に入って、いい会社に入ったほうがいい」と言われました。(当時野球部は160人部員がいましたから)
今から思えば進学指導部の先生たちは凄いドリームスティーラー(夢泥棒)でした。
16歳(誕生日が4月5日なので)の私は大人数人に説得され、子供のころからの夢だった甲子園への道を断たれたのでした。
正確に言えば自分で絶ったのでした。もし、あの時、野球部に入れてくれなかったら死ぬと訴えていれば入部を許可してもらったかもしれませんが、それをやらなかったのは私でした。
私の人生の中で数少ない後悔の一つです。
この後悔がその後の人生に大きく役立つことになりました。
その後悔から二度と自分の夢は絶対に諦めてはいけないことを学びました
 
甲子園は諦めましたがプロ野球選手になる夢は諦めませんでした。
子供のころからの夢であったアメリカで野球をするという夢を捨てていなかったので米国の大学に進学する道を選びました。
受験は得意の英語1科目だったので5大学のうち、3大学から入学許可が届き(合格)、野球部が強くビジネスが学べて日本人がほとんどいないノースカロライナ州メソディスト大学に入学しました。
そこでまた挫折です。
 
当然ですが全く英語が話せない。頼れる人もいない。今のようにインターネットがあるわけでもなく日本の情報も全くないし、電話をかけることもできない。(当時の国際電話は超高額でした)
月の親からの仕送りは寮に住んでいたので3食付いていたとはいえ、$100(当時の為替で約2万円)。
これで十分生活できるかと思ったが、色々と生活をするにはお金がかかりじり貧乏学生生活が始まりました。
そこは本物のアメリカ人だけが住むアメリカだったのです。
もちろん、日本食レストランもありませんでした。
ただ、私には大学卒業後、日本かアメリカでプロ野球選手になるという夢がありました。

野球の名門大学で1年生で初登板、初勝利。将来を期待されましたが、すぐにレベルとパワーの違いを感じました。
出身高校は甲子園の常連で3つ上は3人ドラフトで指名され2人がドラフト1位、2つ上も3人ドラフト指名、一つ上は2人、同期も一人ドラフトでプロに行くような野球部を見てきましたが、メソディスト大学のチームメートはそれより遥かにレベルもパワーもスピードも上でした。
(4年生の時は彼らは地区優勝、南部優勝をし、全米で6校しか出場できないワールドシリーズに出て決勝戦で負けましたが全米2位になり、その年3人がプロからドラフトで指名されました。(のちに大学を訪れた時の監督から聞いた話ですが全員マイナーリーグで終わったそうです)

練習は苦しいけどチームメートに恵まれて楽しかった。

しかし入部して5か月目に無理をして大きなけがのため野球部を離れる(辞める)ことになりました。
簡単なケガではなかったので辞めたことは子供のころからの夢が終わったも同然で大きな挫折となりました。
そして縁あってテニス部の友人に誘われて遊び感覚でテニス部の練習に参加したら結局、卒業までの3年半テニスをやりました。
1,2年生の時の監督がとても良い指導者で男子テニス部で私以外は全員、小、中、高校からのテニス経験者だったのでアメリカで初めてテニスラケットを握った私はチームの練習からは隔離され、監督から毎日マンツーマンで手取り足取りの指導を受けることができました。
そのおかげでめきめきと上達し、4年生の時はキャプテンに選ばれシングルス、ダブルスともにNo1プレーヤーでリーグ戦、全米学生予選に出場し、メソディスト大学の男子テニス部の年間MVP(最優秀選手)に選出されました。
学業もメソディスト大学史上初めて日本人留学生で4年間で卒業することができました。
確かに死ぬほど勉強をしました。勉強をしていないときはテニス、テニスをしていないときは勉強の大学生活でした。

卒業できたのは私の努力は40%。60%はチームメートや大学の友人たちが宿題を手伝ってくれたり、試験前に勉強を教えてくれたからです。
このMVPと卒業できた経験は後に大きな自信と能力開発研修で指導する力になっています。
卒業後は帰国して埼玉にあった空気工具製造会社に就職し工場で作業服を着て、作業靴を履いて毎日油まみれになって部品の組み立てをし爪が汚い男をやっていました。油が爪の中に入り込んで洗ってもなかなか取れなかった時代です。
アメリカの大学を卒業したのに手取りは7万円。
 
手ぶらで帰国した私は会社の言うなりにローンを組んで車(通勤に必要だったので)、冷蔵庫、洗濯機、エアコン、TV等を買ったのですが毎月の支払いが5,5万円で実質手取り1万5千円から私の社会人はスタートしました。(超貧乏)
 
良かったことはアパートの家賃、光熱費等は会社が寮として払ってくれてランチも弁当が出る会社だったのでお金がない当時の私は余った弁当は持ち帰り夕食にしていました。
帰国後初めての正月は久しぶりに実家でおせちが食べれると楽しみにしていましたが、お金がなくて九州へ帰る航空券が買えずアパートで一人過ごしました。
その正月休みに会社を辞める決断をすることになりました。(この決断をするにはストーリーがあります。機会があれば会場で話します。この話が好きな過去の受講生もいますから、きっと聞きたい人もいるでしょう)
会社を辞める決断をしたはいいが、次の就職先は決まっていませんでした。

結論から言えば外国為替の仲介の大手企業に中途入社することになりました。
当時の大学新卒の初任給が15万5千円。(今でもはっきり覚えています)私はそれより少し上でした。
そして毎月残業が120時間以上しなければならない会社でした。その残業の大半は深夜残業でした。
毎週金曜日は米国の雇用統計などの指標の発表が日本時間の21時半(冬時間は22時半)にあるので、そこからまた仕事をして会社を出るのは午前2時、3時でした。

ただ、残業代が100%出る会社だったので基本給より残業代が遥かに多い会社でした。

ただ、肉体的に疲れ、精神的に多大なストレスが溜まり、同僚や先輩は体を壊す人も少なくはなかったです。
その会社に就職し、経済的には貧乏を脱出しましたが、お金を使う時間、遊ぶ時間がなかった生活をしていました。
転職して2年半後に米系の証券会社からヘッドハンティングの話が来て、そこに移ることにしました。
最初の条件は外国為替の仲介の会社の年収の2倍と言われました。
私は死ぬほど残業をしていましたので年収はかなり多かったのに、いきなりその2倍になりました。
会社は9時から17時まで。残業はなし。夏はロンドン市場が日本時間の15時にオープンするので早番はなんと16時に帰ることができる会社でした。

そして日本の土日祭日、アメリカの休日は休みの上、有給休暇、クリスマス休暇が3週間ありました。
休みばかりの会社でした。仕事は楽でした。
それから4年後、人がうらやむような悠々自適なサラリーマン生活を送っていた私は一人のニューヨーク在住の成功している超大手企業の社長とそこの顧問弁護士と出会い、人生が変わりました。
なんと1週間でそのアメリカの証券会社を辞める決断をし、退職しました。
素人の私は自分でビジネスを立ち上げる決断をしたのです。
その時どうしても成功したかったので、色々な成功するセミナーに通いました。

そこで気が付いたのです。

セミナーに通っても、成功する本を読んでも成功できないことを。
そんな時、当時ロイター通信の部長をしていた先輩から日本一の能力開発トレーナーを紹介されました。
すぐにこれが必要だと思い、その研修を数年間にわたって受講を続けました。
新しく始めたビジネスは最初は全くうまくいきませんでしたが、3年後にはビジネスが急上昇し、4年目には全国北海道から沖縄まで様々な地域からお呼びがかかるようになりました。

 
1998年12月に会社とともに福岡の海が見える高級マンションに引っ越しまし。
1999年友人から「九州の人のために九州の人が東京に行くことなく九州で能力開発を、それも低価格で受講できるように宮本社長の能力をや役立てて欲しい」と頼まれ、それがきっかけで福岡で能力開発1日研修を1万円という信じられない受講料で始め、それが口コミで広がりその後、東京、名古屋、大阪、徳島、高知、香川、愛媛、広島で定期的に能力開発1日研修をさせて頂くことになりました。
2000年元旦にその年のホノルルマラソンを走ると決め、12月のホノルルマラソンを4:12:12で完走しました。

それが縁で2003年アシックスがスポンサーになって、小出義男監督の指導を受けてニューヨークシティーマラソンを市民ランナーが走る企画の全国オーディションがあり、最終オーディションまで残りの32名(男女各16名)に残り、結果的に男性1名、女性2名が選ばれたのですが、幸運にもその唯一の男性ランナーに選ばれて、その夏は米国ボルダーで小出監督の指導の下、高橋尚子さんらとともに合宿をし、11月2日に自己ベスト(3:44:45)でニューヨークシティーマラソンを走ることができました。

そこからまた能力開発1日研修のビジネスは急上昇し、2006年9月に毎月1回以上は海外へ行くと決め2015年3月まで8年7ヶ月(103ヶ月)連続で1度も欠かすことなく毎月1回以上は海外へ行くを達成。
 
旅を続けている中でフィリピンのマニラが私にとっては最も住みやすいと思い拠点をマニラに移し2009年12月~2015年 3月まで5年4ヶ月間をフィリピンを拠点に生活しました。
 
2015年3月に家族とともに生まれ故郷の大牟田に移り住みました。
その年から私が卒園した幼稚園で日本では初めてと言われる定期的に園児、保育士の先生、保護者に能力開発指導を始め、
その経験と実績、そして20年間やっている能力開発のノウハウ、様々な実体験、過去の受講生の成功事例をすべて融合させた子供たちの能力を最大限に引き出し、さらに伸ばせる親と先生になる技術習得プログラムSei Method for Kidsを2017年に作りました。https://seimethod.wixsite.com/smfk1

同年、日本一弱者の気持ちが分かるプロトレーナーとして人生の質と幸福度を高める技術習得プログラム
Sei Methodを作りました。
幸せはデパートもスーパーにも売っていない。ましてやネット上にもない。

この世に幸せなんかない。存在するのは「幸せを感じることができる心」と「幸せを感じることができない心」
幸福度=幸せを感じる心の能力はプロから学び、実践することで技術として習得し、人生の質を高めることができます。

それが
Sei Methodです。
 
多くの受講生たちはこの技術のおかげで毎日、幸福度を高くし、人生の質を向上させ、大きな幸せを感じ生きています。
あなたが望まれるなら、私は全力で指導&サポートをさせていただきます。
日本を明るくしたい、元気にしたい、誰もが夢を語り合える国にしたい!
そんな思いで生きています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

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